祥雲寺の歴史|24時間お墓参りができるお寺 祥雲寺

4度の引っ越し、4度の火事から復活した寺

現在の和田倉門
現在の和田倉門
祥雲寺が開山したのは、江戸時代より前のこと。小田原・北条氏が関東を治めていた1532年(天文元年)、豪族・江戸氏の館だった江戸城(和田倉門)の内側に、約30年をかけた大伽藍が完成しました。しかし江戸のまちづくりを進める徳川家康の命により、祥雲寺は城内から神田へ移転。その後も日暮里、白山と2度の引っ越しを余儀なくされ、大正4年、4度目の移転でようやく現在の地に根を下ろしました。この間、江戸の華といわれた火災にも幾度となく見舞われますが、その度にさまざまな支援者を得て復活を遂げてきました。

歴史とエピソード

(1)江戸期以前……江戸城内に創建された禅寺

北条氏の家紋「ミツウロコ」が祥雲寺の家紋に
北条氏の家紋「ミツウロコ」が祥雲寺の家紋に
天文元年(1532年)、後北条氏の重臣で江戸城主だった遠山隼人正景久が、駒込吉祥寺の末寺として創建したのが祥雲寺の始まりです。江戸城(和田倉門内)に創建され、初代住職には吉祥寺の二代目であった大州安充和尚が迎えられました。寺院の堂や塔をはじめ、寺の伽藍が完成したのは創建から30年が経った永禄7年(1564年)。文殊菩薩・普賢菩薩を脇士に、釈迦如来を本尊として国土の安穏を願う寺院が完成しました。 創建当時は、景久の妻(北条上総介綱成の娘)の法号にちなみ、「浄光院」と称していましたが、伽藍の完成からまもなく、景久が北条里見の合戦で戦死。妻の法号「浄光院」に、景久の法号(瑞鳳院殿月渓正円大居士)を重ね、「瑞鳳山浄光院」と名付けられました。

(2)江戸前期……度重なる引っ越しと改名

信州松本藩戸田氏の墓石群
信州松本藩戸田氏の墓石群
天正18年(1590年)、有力庇護者だった後北条氏の滅亡とともに遠山氏も没落し、寺は一時、吉祥寺の隠居所となっていました。そして江戸城に入城した徳川家康が城郭の拡張修繕を進めると、当寺も城内から神田台(駿河台)へ移転を命じられます。やがて、この神田台も駿河の御用屋敷となり、慶長3年(1598年)、小日向金杉村(現在の日暮里)へ二度目の移転。 時代の波にのまれて閉山する寺院が増えるなか、当寺は信州松本藩戸田氏の菩提寺となって手厚い庇護のもとで閉山を逃れ(寛永6年/1629年)、安永、天保、安政と三度の火災に遭うも、地方大名の後援によって復興を遂げました。 宝永6年(1709年)、五代将軍・徳川綱吉が亡くなると、その御台所(妻)が出家して浄光院と呼ばれるようになります。住職は寺の名前が浄光院と同じであることに遠慮して、同年3月9日に鳥居因幡守にお伺いを立て、寺の名を「瑞鳳山祥雲寺」と改号します。この「祥雲」は、初めて庇護者となった戸田氏康長公の法号(祥雲院殿一運宗智大居士)にちなんで名付けられました。

(3)江戸後期…江戸名所として大いに賑わう

『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩(尾張屋清七板)』人文社:東都小石川絵図 1854年(嘉永7年)
『江戸から東京へ 明治の東京』人文社:実測東京全圖 1878年(明治11年)
寛永13年(1636年)、金杉村もまた武家用地となってしまったため、当寺は戸崎台へ移転することになりました。そこは現在の文京区白山二丁目あたりで、館林候の御殿と地続きにあり、水戸候の後楽園にもほど近い立地。拝領地5770坪・町家1929坪の境内には池や築山が配され、将軍が休憩されたと伝わる老松は、幕府の資金で手入れされていました。 このほか、稲荷社の側にあった大日如来石座像は目を病んだ人の参詣が絶えず、客殿に安置されていた聖徳太子像も多くの信者を得て、大祭日には大いに賑わったと言います。このように戸崎台の祥雲寺は江戸名所の一つに数えられ、「江戸名所図絵」にも記される有名な寺でした。

(4)大正、昭和、平成……火災からの復興と発展

『古地図・現代図で歩く 戦前昭和東京散歩』人文社 :1941年(昭和16年) の大東京35區の内15区・7区を加色復刻
戸崎台への移転から280年の後、第二十九世善翁篤友和尚は、遥かに富士山を仰ぐ池袋原(現在の場所)に寺を移すことを決意します。そして大正4年(1915)に移転が完了。しかし、わずか20年後の昭和9年(1934)3月4日、不慮の火災に襲われ、寺の堂塔はすべて無に帰してしまうのです。 第三十世篤仙頼應和尚は、檀家とともに伽藍の復興に努め、旧皇族・伏見宮家別邸を譲り受け、翌年2月に移築して寺再建までの仮伽藍として使用しました。 現在の本堂が建設されたのは昭和56年(第三十一世喚三應一和尚)。平成8年には客殿および庫裡を新築し、現住職である第三十二世大観応人和尚は、各施設に現代感覚を取り入れ、本堂内階段へのリフト設置や玄関前スロープの設置などバリアフリーの寺院を実現しました。